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何を見ても何かを思い出す

自分用映画と本と日常メモ。ブログ名はヘミングウェイの短編から拝借。だいたい何を見ても何かを思い出すので。

「この世界の片隅に」を見て「ヴェニスに死す」を思い出す

この世界の片隅に」、私も見ました。見終わった後、原作も買って読みました。

旦那は2回見に行ってました。最初に彼がひとりで見て、彼がものすごくお勧めするから私も連れて行ってもらった、豊島園の映画館のレイトショーで。

どこがどう面白いのかは、宇多丸師匠のラジオがくわしいのでそっちを聞いてもらうとして、私は私の個人的な感想を書く。

 

観終わった後旦那と話して衝撃を受けたのは、彼がこの映画を「希望の映画」と位置付けていたこと。私は「絶望の映画」だと思っていたし、誰しもそう感じるだろうと当然のように思っていた。

でもよくよく話し合うと、それは私たちの人生観の違いに由来しているのだった。私は人生は絶望だと思う。99%が絶望で、でも1%の希望があるから何とか生きている、と思っている。でも彼は逆で、99%が楽しいことや希望にあふれているけれど、1%の絶望があり、それと折り合いをつけて生きていく、と思っている。

 

私が絶望というのは、いわゆる「絶望的なこと」を指しているわけではない。私にとっては、毎日金を稼いでモノを食べてお風呂に入って身ぎれいにして一定時間の睡眠をとらなくては生きていけないということ、それ自体がもうすでに絶望なのだ。

甘えているわけじゃない。もっとひどい状況の人だっている、お前は幸せなほうだというのは理解している。でもそういう話ではないのだ。

 

ヴェニスに死す」のアシェンバハは、世界的に成功している確かな実力のある作家であるにもかかわらず、自分のこれからの仕事に対して苦悩している。

誰がどれほど自分のことを評価し賞賛しようとも、自分が自分のことをどう思うかが結局のところ全てであって、それはどんな立場にいる人間でもそうなんだ。自分に完璧に100%満足いくことなんてあり得ないんだ。

 

人は生きている間にどんなに偉大な、素晴らしいことをしても死ぬまで苦悩するし、生きていくために毎日毎日食べたり寝たり起きて洗濯物をたたんだりしなくちゃいけない。

 

この世界の片隅に」のラストでは戦争孤児を養子に迎えいれる場面が描かれ、主人公のすずは「記憶の器になる」(映画では「笑顔の器」)と話す。でもそれって辛い。終戦のラジオを聞いた後、「何も知らない私でいたかった」とすずは泣くのだけど、それって良く分かる。辛い記憶や苦しい過去は、死ぬまで私たちを苦悩させる。

 

なぜそれほどまでして生きていかなければいけないのか?正直分からない。でもしょうがない。生きていく限りは悩むしかない。はっきり言ってさっさと終わりにしたい。でも苦しむしかない。それが死ぬまで続くことが絶望だし、それが分かっているのに日常を日常として生きていかなくてはいけないことも絶望だと私は思う。

 

つまり誰もが絶望を抱えながら生きている。なぜこれほど苦しんで生きなくてはいけないのか分からないまま。それでも生きていくんだよ、どんな絶望を抱えていても日常は日常として続けていくしかないんだよ、というのがこの映画なんだと思っていた。

これまでの戦争映画と違うのは、それを表現するのに絶望にスポットを当てるのではなく、日常にスポットをあてたところではないか、と私は思っている。

でも旦那はあのラストで、希望を見出している。「これからどんどん良くなる」という希望。そういう見方もあるのか。私は絶望が続いていくというラストなんだと思っていた。

 

どんな見方をするにしろ、映画としてよくできているし、アニメーションならではの表現や描写には新奇性もある。見て損はない映画だと思う。笑えるしね。