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何を見ても何かを思い出す

自分用映画と本と日常メモ。ブログ名はヘミングウェイの短編から拝借。だいたい何を見ても何かを思い出すので。

リリーのすべて

飯田橋ギンレイホールにて「リリーのすべて」を見てきました。キャロルとの2本立てです。まさかの満席で人生初の立ち見を経験しました。立ち見であることを忘れる面白さでした。

10秒で分かるあらすじ

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出典:映画『リリーのすべて』公式サイト

 

画家同士のラブラブ夫婦生活(子ども無し)→絵のモデルとして女装→自分の中の女に目覚める→いろいろあって世界初の性転換手術→手術の合併症で死亡。

 

私は完全に奥さん目線で見てしまいましたね…。

 

詳しいあらすじ

1926年のデンマークの首都コペンハーゲン肖像画家のゲルダ・ヴェイナーは、風景画家の夫・アイナーと暮らしていた。

ゲルダの画家としての名声はアイナーに及ばなかった。ある日、ゲルダが制作中の絵(女性ダンサー)のモデルが来られなくなり、アイナーに脚部のモデルを頼む。それを見たゲルダは、冗談でアイナーを女装させ、「リリー」という名の女性として知人のパーティーに連れて行ったが、リリーが男性と親しげにする姿に当惑する。

しかしその後もアイナーはリリーとして男性と密会を続けていた。ゲルダはリリーをモデルとした絵を描き、画商から評価を受ける。アイナーに対して、ゲルダは自分の前では男でいることを望むが、アイナーは「努力してみる」としか答えず、パーティーの出来事が女装のきっかけではないと打ち明ける。

やがて、アイナーはリリーとして過ごす時間が増え、絵を描くこともやめてしまう。ゲルダはアイナーを医者に診せるが、そこでは精神疾患という扱いしか受けなかった。

ゲルダの絵に対する引き合いを機に夫妻はパリに移った。パリにはアイナーの幼馴染みの画商・ハンスがおり、ゲルダはアイナーの真実を打ち明ける。話を聞いたハンスはゲルダの力になるべく、アイナーに数人の医師を紹介するが、やはり精神疾患という診断しか下されなかった。

しかし、「それは病気ではない。アイナーの言うことは正しい」という医師が現れる。この医師はアイナーに先例のない性別適合手術の存在を告げ、アイナーは手術を受けることを決断する。

リリーのすべて - Wikipedia

エディ・レッドメインの全裸

エディ・レッドメインの顔がものすごく好きなんですよね。どこからどう見ても育ちが良さそうなあの顔、良いですよね。笑うと広い口が更に横に裂け端にシワがぎゅっと寄るのを見ると、なんというかぽ〜っとしてしまうのです。つまりまあ、めっちゃタイプなんです。

で、そのエディが今回全裸になったり女装したりするんですが、もうそれだけで「ごちそうさまです」って感じ。アイナーが自分の中の性に対して苦悩するとき、自分の全裸を鏡に映すシーンがあり、そこでアイナーは精器を足の間に挟むのですが、絶妙に見せない演出がにくい。見たかった、というのが本音ですが…。

女性が受ける男性からの目線

さて、全編通して印象的だったのは、彼らが交わす/受ける視線です。

冒頭で妻が男性の肖像画を描いているとき、女性が男性から受ける視線と、男性が女性から受ける視線について話すシーンがあります。女性は日常的に男性からの視線を浴びているけれど、男性は女性からの視線には慣れていない。だから女性から視線を受けるとき男性は緊張し、しかし同時に服従の快感を感じると、というセリフです。

女性として、これはすごく理解できる。女性は常に男性の視線に晒されていて、見て見ぬふり、気づかぬふりをして過ごしていると思います。「視線を操れる人はまれだ」とどこかで読んだことがありますが、確かに人は誰かからの視線には敏感だが、自分が送る視線には無頓着なことが多い。

特に女性は視線に気づいていても気づかないふりをするのがうまいので、男性は自分の視線が相手にどのような影響を与えているのか気づきにくいのではないか。でなければあれほどあからさまに視線を向けることはできないはずだと私は思うのです。

男性が女性からの視線に緊張する、というのも分かる気がする。男性をじっと見つめると、すごく挙動不審になったりするから。我々女性は盗み見るのもすごくうまい。もちろんそうでない人もいるけど、でも一般的に言って、男性よりはずっとうまい。「地図が読めない女、話を聞かない男」でも読んだことがある気がするけど、男性は盗み見るのが下手だよね。

視線への快感、は、女性の特権だろう、ということ。それがまず冒頭にくる。

リリーが舞踏会に出るとき、多くの男性がリリーを「盗み見」ます。リリーはそこではじめて、自分への視線に意識的になったのだと思う。そのときリリーが感じたのはまさに、緊張と快感だったはずです。何がアイナーをリリーにしたのか?私は、誰かの視線が、彼女を真に女性にしたのだと思う。誰かからの視線ではじめて、彼女は自分が女性であることに気づいたのではないでしょうか。

ここで思うのは、ファッション(見た目)の効用です。自分の姿が変わることは、自分が変わるということだけにとどまらない。それは、他者をも変えるのだ、ということ。自分が表面的に変化し、それを受けた他者(の反応)が変わることによってはじめて、本当に自分が変わるのだ、と思うのです。人は一人で生きているわけではない。他人との関わりによって自分が常に定義づけられていくのだ、ということです。

それ自体は当たり前といえば当たり前なんだけど、それを視線の受け方/受け取り方だけで伝えるのがすごいなと思いました。リリー/アイナーは自己のアイデンティティに関して映画内で多くを語っていない、というかむしろほとんど何も語っていないに等しいのに、その変容が見る側にダイレクトに伝わってくる。非常に映画的な表現の仕方だと思いました。

 

ほかにも、彼らの夫婦関係は非常に興味深いとか、もし自分の夫が突然女性になったら辛いだろう、もっとも辛いのは肉体的な触れ合いができないところな気がする、とか、医者の診断は人の深いところに大きな影響を与えるとか、いろいろ思うことはありましたが、言葉にするのは難しいな。それを言葉にするために、もう一度見ても良いなと思います。

思い出したこと

エディ・レッドメインの顔を見ると「育ちがよさそうな」という修飾語を思い出すんですが、「育ちがよさそうな男性」という言葉を聞くといつも吉本ばななの小説を思い出します。どの小説だったか失念してしまったけど(たぶんキッチンの続編の『満月』かな?)、そこで語尾を「~でしょう」と言う男性が出てきて、主人公のみかげが「こういう育ちの良さそうなところが好き、私を傷つけたりしないだろうから」みたいなことを思う場面があるんですよね。

ストーリーの内容はあまり覚えていない(なにせ読んだのが中学生とかだから)んだけど、そういう細部をすごくよく覚えているな。